皆さんは、イギリスで「ベイクウェル」と言えば何を思い浮かべますか?「よく焼く」を意味する”bake well”?
今回の正解は、ピーク・ディストリクトの中心にあるダービーシャーのBakewellという田舎町です。
時は1995年、訪英中だった私はロンドン出身の友人が好きな、そしてMr.ビーン(若い方のために…Mr.ビーンは俳優でコメディアンのローワン・アトキンソンによる世界的に有名なキャラクター)も好物だった「チェリー・ベイクウェル(アイスド・ベイクウェル)」というお菓子を求め、一人この場所を目指しました。
<旅の始まり~ベイクウェルとベイクウェル・プディング>
まずはロンドンのセント・パンクラス駅から列車で約2時間。チェスターフィールド駅に着くと、バスに乗り換え、風光明媚な車窓を眺めながら揺られること小一時間。ベイクウェルに到着です。
インフォメーションセンターを出ると、すぐそこに”The Old Original Bakewell Pudding Shop”というお店がありました。
「ベイクウェル・プディング」?ベイクウェルのデザートという意味かしら、と入ってみると、どうやら「ベイクウェル・プディング」という名のお菓子がある様子。
さっそく紅茶と共にオーダーし、待っていると現れたのはカスタードの海に溺れたパイ。
イギリスで言うところのパフ・ペイストリーというパイ生地に、ジャムとカスタード”的な”フィリングを乗せて焼いたもので、こちらではその上からたっぷりとカスタードソースをかけてサーブされていました。
実はこのベイクウェル・プディング、ベイクウェル発祥のお菓子として、地元では古くから有名な一品だったのです。
なんと1836年には既に”a far-famed pudding(広く知れ渡ったプディング)”として雑誌に載っていたそうですよ。
ちなみに、Bloomersという別のお店も訪れたのですが、この”The Old Original Bakewell Pudding Shop”と”Bloomers of Bakewell”の2つが、「ベイクウェル・プディングのオリジナルレシピを持っている」と主張して競い合っているのでした。
両者とも、主張するレシピの起源はだいたい同じです。
地元ホテルのホワイト・ホース・イン(現ラトランド・アームス・ホテル)の女主人だったミセス・グリーブスが厨房へジャムタルトを作るよう指示した際、料理人がタルト生地に混ぜ込むべき材料を誤ってフィリングとして流し込んでしまったためにできた、というお話(ジャムを入れる順番を間違えたという説も)。
ただ後々調べてみると、ベイクウェル・プディング自体は以前から存在し(鉄道の開通に伴う観光促進のためにスイート・ミート・プディングを改名したという説もあるようです)、それがアクシデントによって新しいレシピになり、それをメモしたのがミセス・グリーブスなのではないか、という推測のほうが筋が通っているようです。
ミセス・グリーブスの子孫であるポール・ハドソン氏も、定説のディテールにおいては異論があるようですが、オリジナルのありかについては「彼女はレシピを友人などに惜しみなく教えていた」と認めているので、地元に複数のレシピ所持者が存在していても不思議ではないのかもしれません。
そして皮肉にも、この争いのおかげでさらにベイクウェルの街が活気づいた、と言えるでしょう。
<旅の目的、”ポピュラー”・チェリー・ベイクウェル>
さて、歴史ある興味深いベイクウェル・プディングに出会うことができたものの、そもそも今回の目的はチェリー・ベイクウェル。
さらに街を歩くと、ありました。
写真をごらんください。”Popular Iced Bakewell(人気のアイスド・ベイクウェル)”ですって。そうそう、これこれ。
チェリー・ベイクウェルは、ショートクラストペイストリーというイギリス独自の生地(パイとクッキーの間のような生地)に、ストロベリージャムもしくはラズベリージャムを敷き、アーモンドたっぷりのフィリングを乗せて焼いたら、仕上げにアイシングを流し込んでレッドドレンチェリーを乗せるという、見た目にも可愛らしいお菓子です。
お味もアイシングにアーモンドの風味が移って一体感が美味しく、人気が出るのもよくわかるのですが、実はこちら、ベイクウェル発祥ではなく、1970年代に大手菓子メーカーによるブランドMr. Kiplingが開発したとされています。
もっと言えば、この”Popular Iced Bakewell”のお隣にひっそりと並べられている”Traditional Bakewell Tart(トラディショナル・ベイクウェル・タルト)”こそが大元、チェリー・ベイクウェルはベイクウェル・タルトのバリエーションとして生まれたものだったのです。
<あの人もお好き?なベイクウェル・タルト>
ベイクウェル・タルトは、チェリー・ベイクウェル同様、ショートクラストペイストリーにジャムを敷きアーモンドのフィリングを乗せますが、アイシングの代わりにスライスアーモンドを散らして焼き上げます。
アイシングの甘さはありませんが、素朴ながら味わい豊かで品のいいお菓子です。
ヴィクトリア朝の商業文化に伴って街の観光業が進み、その過程でベイクウェル・プディングの派生形として生まれたと考えられるこのお菓子は、レシピが耐火金庫で厳重に守られているベイクウェル・プディングに比べて、一般家庭に広く浸透しました。
現イギリス首相ボリス・ジョンソン氏も、インタビューで「お気に入りのスイーツは?」と聞かれると、いつもこのベイクウェル・タルトを選んでいます。
おばあ様がよく焼いてくれたお菓子なのだそうで、彼はイギリスらしいちょっとブラックな言い回しで「もし僕が死刑囚だったら(最後の晩餐に)ステーキ&チップスの後にベイクウェル・タルトを食べると思う」とも語りました。(ただしその後すぐに別のお菓子と迷い出してしまったのですが…)
<終わりに…>
のどかな美しい街で出会った3つの素敵なお菓子。
私はここからまた新たなお菓子を求めて別の街へと旅立ちましたが、近くにはミントンでお馴染みの「ハドンホール柄」のインスピレーション元となったタペストリーの飾られた、チューダー様式の荘厳な邸宅ハドン・ホールがあります。
がらりと印象が変わる豪華なチャッツワース・ハウスも足を伸ばせる距離にありますし、色々と訪ねてみるのも面白いかもしれません。
またハイキングコースの出発地点でもありますから、もし宿泊されるなら、次の日はランチや糖分補給用の甘いものとしてお好きなお菓子を買って、自然の中を散策してみる、そんな旅も楽しいかもしれませんね。
(写真・文 杉本悦子)